その「正義」は誰のため?

コラム

1. 正義は気持ちいい

悪を叩く。間違いを指摘する。誰かを論破する。

これ、正直に言うと、めちゃくちゃ気持ちいい。

SNSで炎上している誰かに石を投げる時、後輩の間違いを正す時、家族に「それは違うでしょ」と言う時。あの瞬間、脳内ではドーパミンが出ている。医学的にも心理学的にも、これはもう仕組みとして説明がついている話だ。

つまり「正義感による攻撃」は、性格の悪さでも人間性の欠如でもない。脳の仕組みとして、誰にでも起こる中毒性のある快感だということ。

先に断っておくと、これはあなたを責める話ではない。私も同じ穴の狢だ。30年介護の現場にいて、何度もこの快感に足を取られてきた。これから書くのは、その中でも一番痛かった話。

2. 現場エピソード:熱意という名の圧力

ケアマネジャーをしていると、こういう場面によく出会う。

ある利用者さんが「運動をしたい」と希望された。身体機能も維持できる、他人との交流もできる、認知機能低下の予防にもなる。知識と経験からすれば、デイサービスの利用は「明らかに正しい提案」だった。

体験利用の日程を組み、送り出した。

数日後、電話が鳴った。「やっぱり行かない」と。

理由を聞いた。「そもそも人と接するのが苦手で、レクリエーションに参加するのが嫌だった」とのことだった。

身体機能の維持のため、認知機能低下の予防のためと思って提案したデイサービスが、実はその方にとって一番苦手なことをやらせる結果になっていた。

さらに、こう続いた。

「利用する前に、人が多いところやレクリエーションが苦手だと教えてほしかった」と伝えたところ、返ってきたのはこの一言だった。

「ケアマネさんが一生懸命提案してくれたから、言い出しにくかった」

この一文で、自分がやったことの本質に気づいた。

これは単に「相手の事情を知らなかった」という話ではない。自分の熱意そのものが、相手の口を封じる圧力になっていた。良かれと思って注いだエネルギーが、相手にとっては「断りにくさ」というプレッシャーに変わっていた。正義は、時に暴力になる。

その後、少人数で個別対応がメインの、半日型のデイサービスにつながった。結果的には良い着地だったが、あのサービス提案の在り方は、今でも考えさせられる経験として残っている。

3. 正体:承認欲求と自己顕示欲

この構造を一段抽象化すると、こうなる。

「熱意」や「正しさ」は、それ自体が相手にとって無言の圧力になり得る。相手のことを思っているつもりでも、実際に動いているのは「自分が正しいと認めてほしい」という欲求だったりする。

これはSNSでも全く同じ構造で起きている。

誰かの間違いを指摘する投稿には「いいね」がつく。共感のコメントがつく。それが燃料になって、次も、また次も、正義感を発動させたくなる。「自分は正しい」と認めてもらいたい欲求は、SNSの仕組みと相性が良すぎる。

「こうあるべき」「普通はこうする」という言葉の裏にあるのは、多くの場合、相手のためというより「自分の価値観を認めさせたい」という欲求だ。

介護現場のあの一件も、SNSでの正義の投げ合いも、根っこは同じだったということになる。

4. なぜズレるのか:正しさは経験の産物

ケアマネとしての「正しさ」は、データと経験の積み重ねからできている。デイサービスに行けば身体機能は維持できる。これは統計的にも臨床的にも裏付けがある。

一方、本人にとっての「正しさ」は、その人が生きてきた経験からできている。集団が苦手だという感覚、人と接することへの抵抗感。それもまた、その人の人生が積み上げてきた、紛れもない事実だ。

育った環境、学校、仕事、成功と失敗の体験。積み重ねてきた経験が違えば、形成される「正しさ」も全く別物になる。

エビデンスに基づく正しさと、本人の来し方に基づく正しさは、そもそも同じ土俵に立っていない。だからこそ「自分にとっての正解」が「相手にとっても正解」とは限らない。

これはキャンプで言うところの、装備と経験によってリスクが変わるのと同じだ。夏キャンプしか経験がない人が、そのままの装備と感覚で雪上キャンプに行けば、命に関わる。冬の怖さを知らない人の装備と、痛い目に遭いながら積み上げてきた人の装備では、同じフィールドに立っても見えている景色がまるで違う。積み上げてきた経験と装備が違えば、取れるリスクはまるで別物になる。正しいやり方は一つではない。

5. 一歩立ち止まる問い

よくある結論なら、ここで「あなたのその正義は、本当に相手のためのものですか?」と締めるところだろう。

だが、これでは弱い。もっと踏み込んだ問いが要る。

その提案、その指導は、相手の来し方を一つでも想像した上でのものか。

正義そのものを否定する必要はない。デイサービスの提案自体は、間違っていなかった。問題は、そこに自分の熱意や承認欲求が乗っかっていなかったか、という一点だけだ。

一歩引いて、相手がどんな経験を積んで今のその感覚に至ったのかを想像する余白。ブッシュクラフトで火をおこす前に、風向きと湿度を読むのと同じだ。焦って火種を放り込んでも、火はつかない。相手の状況を読んでから、初めて火は育つ。

その余白こそが、本当の意味での優しさだと思う。

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